遊郭の跡。[05■街路 / street]
(2007-06-02 23:55:37) by 中の人
<画像:20070602.jpg>
■Panasonic LUMIX DMC-LX2 (ISO100 F8 1/20s)
正式には田町遊郭(田町といっても山手線の田町ではありません)。
田町。明治後期から昭和中葉にかけて繁盛した八王子唯一の遊郭。1897年(明治30)4月の大火によって、それまで横山町甲州街道沿いにあった遊郭が焼失、その後、現在の田町に移転、田町の遊郭として繁盛を極めた。明治末期には、西玉楼、武蔵楼、今萬楼、宏陽楼、桝萬楼、大萬楼、三崎楼、大川楼、大桝楼、但州楼、福萬楼、吉濱楼、徳萬楼等が軒をつらねていた。1958年(昭和33年)売春禁止法施行によって、60年にわたる田町遊郭の歴史を閉じた。→飯盛女
(出典:八王子辞典の会『八王子事典』改訂版、かたくら書店、1991年、507頁)
「→飯盛女」とあるので飯盛女。
江戸時代、街道の宿屋で給仕や雑用をつとめ、遊女ともなった女性のことをいう。1718年(享保3)宿場助成の一つとして、宿屋一軒に2名の飯盛女を抱えることを許可したが、人数は常にオーバーし、取り締まりの対象となった。八王子では宝暦年間(1751〜1764年)に飯盛旅籠が公認許可され、飯盛女が登場。公には給仕女と認められていたが実質的には売女でもあった。宿場の繁栄にも一役買っていたことで取り締まりも充分できず、遊女同然にエスカレートしていったこともあり、1822年(文政5)には旅籠屋・飯盛女が検挙されたこともあったが、翌年には従来どおりの飯盛女が復活している。1824年(文政7)の文政の大火後、不振続きの四日場は振興策として、甲州街道に散在している飯盛旅籠を四日場(現・ダイエー一体)に集めた。飯盛女は次第に華美になり遊女化していった。明治初期には飯盛旅籠は貸座敷と名も改められ繁栄を誇ったが、1893年(明治26)に新万楼からの出火(新万火事)で遊女が焼死し、移転計画が検討された矢先、97年4月22日の明治大火が起こり、それを契機に浦田・新地(現・田町)に移転され、田町遊郭をつくった。この遊郭も1958年(昭和33年)売春禁止法施行により姿を消した。
(出典:八王子辞典の会『八王子事典』改訂版、かたくら書店、1991年、877-878頁)
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■Panasonic LUMIX DMC-LX2 (ISO100 F8 1/6s) 上の写真の建物の左側
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■Panasonic LUMIX DMC-LX2 (ISO100 F8 1/100s) 別の建物
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■Panasonic LUMIX DMC-LX2 (ISO100 F8 1/250s) 一番広い通り
自分が子供の頃、昭和47、8年頃の話です。
当時子供だった自分にとってこの場所が「昔、遊郭だった場所」なんて知る由もなく、その前に「遊郭」という言葉や意味さえも知らなかったと思います。たまたま何かでこの街を通りかかった際、「他の街とは違う雰囲気」、「艶やかというかなんというか華やいだような空気」みたいなものを感じた記憶があります。
最後の写真に写っている広い道路の先に続く狭い道路があるのですが、「狭い道」から「広い道」に抜け出た瞬間の情景とその時感じた何かが1枚の絵として今でもはっきりと脳裏に蘇ってきます。
事実上昭和33年に廃止になったとされていますので、この「何か違う雰囲気」や「華やいだ空気」が昭和47、8年当時に残っていたかどうか定かではありませんし、今のところ確認する術もありません。
しかし、歴史が深い分名残も後を引くのでは? という考えも有りかなと思ってます。
何で遊郭について必死になってんの、っていうか自問自答?
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